大和の花火


小山煙火鰍ノ伝わる文政年間に記録された
花火製造工程の古文書。
国内の花火製造会社としては、現在一番歴史がある。
低温花火(ローカロリー花火)が最初に紹介されたのは筑波万博の時、この花火にいち早く取り組んだのが小山煙火である。


古文書と花火の模型。
1個の打ち上げ花火は沢山のパーツの
組み合わせで出来ている。
実際の製造工程は何個も同時に並行して製作するが、たった1個だけの製造工程を考えると、1ヶ月、1年かかるものもある。


花火は一瞬のものでありながら、連続の魅力。
驚きがあり、感激があり。
この光の魅力にかなうものはいまだ登場しない!



 「たまやー」「かぎやー」で知られる、江戸っ子自慢の隅田川の花火(両国花火)の始まりは、篠原村(現大塔村篠原)から江戸にあがった弥兵衛が考案した花火であった。  慶安三年(1650年)頃、鍵屋の祖、弥兵衛が篠原村から新町村(現五條市新町)に出て来て、村松鉄砲薬調合所(黒色火薬製造所)で作業員として働いていた。最初のうちは、水車で火薬の原料を粉砕したり、調合の手伝いをしていたが、研究家で勉強熱心な弥兵衛は、わずかな年月で火薬製造の技術に熟達したのである。  火薬製造の技術が熟達するにつれて、深く火薬に関心を持つようになった。特に火薬の美しい炎に惹かれ、これで花火を作り出すことができないかと考えていたようである。弥兵衛は、よく芦の筒に火薬を入れて火炎を発射したり、火薬玉を芦の筒から打ち出して皆を喜ばしていた。  この頃、新町村の近くに知行を持っていた根来鉄砲組の屋敷へもよく出入りして、火薬や花火について話を聞いたり、時には自分がつくった花火について意見を聞きながら改良を加えていったようである。鉄砲組の人たちは、弥兵衛の熱心な姿を見て、花火屋になることを奨め、弥兵衛も江戸に上がる決心をしたのである。  万治二年(1659年)、江戸に上がった弥兵衛は、横山町に花火の店舗を構え、屋号を鍵屋とした。それから数年、花火の研究に日夜没頭し、苦心の末、江戸っ子を「あっ」と言わせるような花火を作り上げたのである。苦心の末つくり上げた花火を隅田川の両国で打ち上げて将軍に認められたり、幕府御用や徳川家の花火師になれたのも、根来鉄砲組や鉄砲同心の陰の力があったためだろう。

2004/02/06    
ヽ(▲〓ヽ)(ノ〓▲)ノケケケ

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