大安寺境内万葉歌碑

うつせみは数なき身なり山川の清けき見つつ道をたづねな
(万葉集巻二十 4468 大伴家持)
| 天平勝宝8歳(756)、家持数え39歳頃、先帝聖武崩御の直後、橘奈良麻呂(諸兄(もろえ)の子)派の大伴古慈斐(こしび)が淡海三船(おうみのみふね)とともに朝廷誹謗の罪で数日禁固されました。家持は三船の讒言(ざんげん)を注(しる)しますが、背後に動く藤原仲麻呂の専横の権謀が身近に迫りました。名門の子の族長は、一族歴世の王統派としての栄名を「族(やから)を諭す歌」に矜(ほこ)って、一族に自重分別を諭しました。しかし、自身の久しい苦衷のやむわけはなく、政争のいよいよ醜い時代社会のなげきの底に、「病に臥して無常を悲しび、修道を欲(ほ)りして作る歌二首」を作ります。 碑の歌は、その第1首目です。どう生きるか、現世(うつしよ)びとの私は、物の数にも入らないはかない身である。山色渓声の清明に観入して心をみがき、永遠の道を尋ね求めたい。仏教の本性清浄の境地の刺激に思いをひそめながら、やまとことば伝統の「清けき」を生かす歌には、古調の典雅に近代の淑質が響き、その聡明をつたえます。第2首目は、「渡る日の光(かげ)に競(きほ)ひてたづねてな清きその道またもあはむため」。つづいて「寿(いのち)を願ふ一首」を作り、三部作が成りました。 碑は、「万葉」の有数の古写本「元暦(げんりゃく)校本」から採ります。平安末期、元暦元年(寿栄3年、1184、平家滅亡の前年)に成った、鳥の子紙の美しい写本です。本文の後に、その歌の平安盛期の訓み方をとどめて貴重です。いま、本文の最後の字「那」は、諸本に「奈」とある方がよいでしょう。筆者は複数、すべて不明ですが、源平争乱の南都炎上を知る人にはちがいないでしょう。 |
本田義憲先生監修
(奈良市に万葉歌碑を建てる会専門委員・奈良女子大学名誉教授)
大安寺境内地
「竹寺」とも呼ばれ、6月には竹供養も行われます。
竹筒に入った笹酒は病封じの効能があるそうです。
近鉄奈良駅から大安寺行きバス10分、徒歩10分。

大安寺境内
JR・近鉄奈良駅→
大安寺方面行き10分「大安寺」下車徒歩10分
これからの建立予定 |