松伯美術館万葉歌碑

春雨(はるさめ)のしくしく降るに高円(たかまと)の山の桜はいかにかあるらむ
(万葉集巻八 1440 河辺 東人(あづまひと))
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「春佐米乃阿波礼(はるさめのあはれ)」(正倉院文書)。「春雨」は万葉にはやく柿本人麻呂歌集に見えます。
降りしきる春雨に、江戸時代から「花の長雨にうつろはむ事をおもふ」(略解(りゃくげ))とも、「高円山の桜花は、
此頃いかにかあるらむ、今は開出(さきいで)ぬらむと思ひやらるるを」
(古義(こぎ))とも釋(と)きますが、おそらく後者、花を催すのを思いやるのでしょう。 花は、山桜です。「花ぐはし桜の愛(め)で……」(日本書紀、允恭)、こまやかに美しい、 桜のように愛(かな)しい女(ひと)と賞(ほ)めもし、磐余若桜宮(いはれのわかざくらのみや)(履中記紀) と宮殿の名などものこりますが、万葉の木の花は白梅118首(紅梅はまだ無い)、桜41首、あしび10首、 椿9首など、平城の貴族たちは中国伝来の白梅をめでました。今は天平4(732)年頃の桜のみやび。 高円(たかまど)の山野は万葉の歌の確かなもの24首など、志貴皇子葬送の歌(巻二230〜31)、後、 聖武の離宮をめぐる歌々(巻二十)などものこります。春日野、高円、よき遊宴の地。 作者は、天平5年、重篤の山上憶良を藤原八束(やつか)の命(めい)で見舞います。 答礼し終えて憶良は、涕(なみだ)を拭って「士(をのこ)やも空しくあるべき万代(よろずよ)に語りつぐべき名は立てずして」 と口ずさんだという(巻六978)。同年、光明皇后の宮(故不比等(ふびと)邸、後の法華寺)での 維摩講(ゆいまこう)の結願(けちがん)の日に、佛前で「しぐれの雨間(ま)なくな降りそ紅(くれなゐ)ににほへる山の 散らまく惜しも」の歌が唱われた時、その歌い手のひとりでも彼はありました(巻八1594左注)。若かった日のことです。 後、彼が光明皇后の吉野宮での歌を伝誦云々と、越中守時代の大伴家持がつたえてもいます(巻十九4224左注)。 声がよかったのでしょうか。 |
山吹の咲きたる野辺(のへ)のつほすみれ此の春の雨に盛(さかり)なりけり
(万葉集巻八 1444 高田女王)
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山吹は今の山吹でしょう。 水辺の山吹の歌われる間に、 今は野辺のそれをツボスミレと取り合わせる。 「都保須美礼」、 ツホ……と澄むらしい。 春、 紫の筋ある白い小花。 スミレの類はもと食用の菫菜(すみれ)なから、 貴族たちには観賞の雅(みやび)をも交えつつありました。 今、 群れて咲くのでしょう。 原文 「咲」 は古事記などでは漢字本来の咲ゑむ、 咲わらうの意、 万葉ではじめて花咲く意にもなりました。 「盛なりけり」、 もとよりこの 「けり」 は現実のその事柄に今はじめて気づいたという詠嘆、 「しばし文机に頬づえ (マゝ) つきておもへば誠に我は女成なりけるものを……」 (樋口一葉、 日記、 明治29)。 高田女王には、 今城(いまき)王に贈ったという恋歌6首がある。 「わが背子し遂(と)げむといはば人言(ひとごと)は繁くありとも出でて逢はましを」 (巻四539)、 あなたがふたりの恋を遂げようとするならば、 人の口は煩わしくとも、 私はあえて家を出て逢おうものを。 「わが背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる」 (540)、 もう再びとは逢えないかと思うからか、 今朝の別れのどうしようもなかったこと。 いま、 女王を 「高安之女むすめ也」 と注します。 高安王は天平11 (739) 年、 大原眞人(まひと)という姓(かばね)を賜わりました。 同14年に没します。 今城王と同族だったか。 詳しいことはわかりません。 「茅花(つばな)抜く浅茅(あさぢ)が原のつほすみれ今盛りなり吾が恋ふらくは」 (巻八1449)、 大伴田村大孃の、 義妹坂上大孃 (後、 家持の妻) への歌。 ツボスミレの花の盛りのように、 あなたが恋しいのよ。 |
本田義憲先生監修
(奈良市に万葉歌碑を建てる会専門委員・奈良女子大学名誉教授)
これからの建立予定 |