円照寺境内万葉歌碑

あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰(た)れ
(万葉集巻二十 4294 舎人親王)
| さきの 「御口号」 は和(こた)えて賦(よ)むべきことを王卿等に詔していました。 舎人
(とねり)親王 (676〜735) が和えます。 天武の皇子、 『日本書紀』 撰修の総裁、
淳仁廃帝の父。 元正女帝より4歳年上の血族でした。 和えて歌は、 「山つと」、 この客観的相関物を軸に、 あらためて山人を重奏します。 山人は変幻します。 「山村」、 山の神人(じんにん)の村に行ったというあなたは山人(やまびと)、 もはや仙境(やま)の人、 そのあなたが山で逢ったという、 その山づとをくれたという山人とは誰なのか、 と歌う。 むろん、 仙人のあなたの心もわからずに山づとをくれたのは誰、 というのではなくて、 もはや仙人のあなたの心の程も俗界の自分には測りかねる、 その山人とは誰なのか、 と歌うのです。 同音異義語を多義的にもつれさせて興じて頌(ほ)めます。 脳髄が回転しています。 この場合、 太上天皇、 上皇を仙洞(せんとう)に住む仙人とかさねる発想がすでに有ったかどうか。 万葉の 「藐姑射(はこや)の山」 (巻十六3851)、 はるかな姑射の山ということばは 『荘子』 の神仙思想に由(よ)りますが、 このことばが日本で仙洞御所の意を文献的に確実にかさねるのは、 平安盛期の漢詩文あたりからのようですから、 いま如何でしょうか。 舎人親王は宴で 「無心所著(ナンセンス)の歌」 を作らせて賞した (巻十六3838〜39) ような人。 いまも平城宮廷サロンの開明の空気の諧謔でした。 2首は、 天平勝宝5(753) 年、 大佛開眼の翌年に大伴家持が書きとめました。 上官藤原仲麻呂の家で孝謙女帝への上奏に関わる仕事の合い間に、 下官が旧聞の歌を家持に誦したのを書きとめたのです。 政務のつかのま、 ことばの組織(システム)という世界に遊んだ、 その心事の襞(ひだ)。 |
本田義憲先生監修
(奈良市に万葉歌碑を建てる会専門委員・奈良女子大学名誉教授)
円照寺参道(2)
JR・近鉄奈良駅→
山村町行き20分「円照寺前」下車徒歩5分
これからの建立予定 |