喜光寺境内万葉歌碑

大き海の水底(みなそこ)ふかく思ひつつ裳引(もび)き平(な)らしし
菅(すが)原の里
(万葉集巻二十 4491 石川女郎)
| 藤原宿奈麻呂(すくなまろ)の妻、 石川女郎(いらつめ)が愛薄れて離別、 悲しみ恨んで作った歌と左注されます。
「女郎」 はもと漢語、 少女の意。 日本で古く婦人を親愛して呼ぶ和語イラツメに宛てました。
いま、 万葉に他にも見える同名の何人かとは全く別人でしょう (系譜未詳)。 歌は、
天平宝字元 (757) 年歳晩某宅宴歌と題詞する大伴家持らの3首の後に、 題詞なく配列されて、
作歌 「年月未詳」 とも左注され、 家持か誰れかの披露したのを家持が書きとどめたか、
と想像されます。 宿奈麻呂 (良継、 716〜77) は宇合(うまかい)(式家) の次子。 兄、 広嗣の反に坐し、許されて後、 諸官を経て、 家持に相模国の防人の歌を提出しなどもしました。 仲麻呂(武智麻呂の次子、 南家) の専権を怒り、 宝字6 (762) 年、 家持らと謀って泄(も)れた時にはかばって独り責を負い、8年、 仲麻呂の反した時にはこれを奉詔追討します。 阿部氏の女(むすめ)、 高級女官、尚 侍 古美奈(ないしのかみこみな)との間に女乙牟漏(おとむろ)を得 (760)、 称徳女帝の崩時には光仁(父、 志貴皇子) を立て、 乙牟漏はやがて桓武 (父、 光仁) の皇后になり、 平城・嵯峨らの母になるでしょう。 寵厚かった頃の夕べ、 石川女郎は花やかに裳裾を引いて道を踏み平らす (類型表現) ほど行きつもどりつ、 思い頼んで逢う心の底は大海の深みに溶けていたのか。 いま、長い裳裾を引いた年月はすべて屍衣のように、 成らなかった恋の傷(いた)みは失われた里を映します。失寵のかげには、 次代へ移る権力史がしのび寄っていたのです。 菅原の里。 垂仁陵古墳の濠、 旧 暗越(くらがりごえ)奈良街道の北。 右京三条三坊あたり、 喜光寺。 「菅原や伏見の里」 と歌枕にもなりました。 |
本田義憲先生監修
(奈良市に万葉歌碑を建てる会専門委員・奈良女子大学名誉教授)
喜光寺境内
近鉄尼ヶ辻駅→西へ徒歩10分、または近鉄西大寺駅→「歴史の道」を南へ徒歩15分
これからの建立予定 |