東大寺真言院境内万葉歌碑

すめろきの御代(みよ)栄えむと東(あづま)なるみちのく
山に金(くがね)花さく

(万葉集巻十八 4097 大伴家持)  
 

 天平感宝元 (749) 年 「賀陸奥國出金詔書歌」。 「五月十二日於越中國守館、 作之」 (左注)。 東大寺大盧舎那佛造立、 塗金不足の時、 「陸奥(みちのく)の小田(をだ)なる山」 (宮城県遠田(とおだ)郡涌(わく)谷(や)町黄金(こがね)迫(はざま) に出た日本最初の黄金を、 國守百済王敬福(きょうふく)が貢上します。 4月1日、 聖武帝東大寺行幸、 佛の慈(うつく)しびを戴く 「三宝之奴(やっこ)」 の詔につづき、 佛神や歴代天皇(すめろき)の惠(うつく)しびを皆ともに歓よろこぶ詔が改元を告げ、 功を讃える間には、 大伴・佐伯同族両氏の祖(おや)たちが宮廷を護ってつたえた矜(ほこり)のことば、 「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)、 山行かば草蒸(む)す屍……」 もほめられ、 家持らも昇叙されました。 荘園墾田の使いとして下(くだ)った東大寺僧平栄からもつぶさに聞いたでしょう。 感激して家持は、 みずからの最長の長歌一首・反歌三首を、 詔のことばを承うけながら、 「顧(かへり)みはせじ」 などとも調べて賀しました。 王統派の名門の名を負う族長として、 伝統の心の栄光を一門に振い起こそうともしたのです。 充実した一連。 第三反歌には、 「栄(さか)ユル」 は 「花ニ付(つき)テ云(いふ)詞ナレバ、 花ノ中ニモ金花(くがねはな)ノ咲(さき)タルハ……」 と、 『万葉代匠記』 (契沖) が注しました。
 同年、 家持の頼む聖武帝譲位。 天平勝宝改元、 藤原仲麻呂が権力を露(あら)わにします。 帰京の翌4年、 大佛開眼の盛儀に家持の歌はのこりません。 5年春には歴史的感覚(ヒストリカル・センス)の底から衷情を訴え (巻十九末)、 7年には掟のままに召される東(あずま)の防人たちの 「悲別」 に涙しました。
 長岡遷都の翌延暦4 (785) 年、 持節(じせつ)征東 (征夷) 将軍家持没、 未葬のまま藤原種継暗殺事件連坐の罪を着せられなどします。 多賀城で没したのか、 そこは36年前に賀して歌ったその黄金の國でした。

本田義憲先生監修

(奈良市に万葉歌碑を建てる会専門委員・奈良女子大学名誉教授)

東大寺真言院境内
 JR・近鉄奈良駅→市内循環7分「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分(東大寺真言院)

トップページへ

これからの建立予定