記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 7/20

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つくられている」とされる。「おそらく宇陀では大量の辰砂ものはみな白く、宮殿は黄金や銀でていた。人が住み、不死の薬がある。そこの四一キログラムもの水銀朱が残っ瀛えい州しゅうの三神山があり、そこには仙の天....

つくられている」とされる。「おそらく宇陀では大量の辰砂ものはみな白く、宮殿は黄金や銀でていた。人が住み、不死の薬がある。そこの四一キログラムもの水銀朱が残っ瀛えい州しゅうの三神山があり、そこには仙の天神山古墳(天理市柳本)にも荒く近づきにくい所に蓬ほう莱らい、方ほう丈じょう、紀ごろの築造だが、それと同時代成った『史記』によると、「風波が茶臼山古墳は三世紀後半?四世老不死を願う思想だ。前一世紀頃にじます」と辰巳先生は語る。世を超越して、仙人にあこがれて不いと願った被葬者の強い意志を感神仙思想は、平たくいえば、現の水銀を使って、永遠の命を得たう。の水銀朱は、不老不死の薬として想の影響が色濃く見てとれるとい点に達します。茶臼山古墳の大量うわけだ。これには中国の神仙思神仙思想への傾斜は古墳時代に頂老不死を生きるための装置だとい時代の中期には伝えられており、り、古墳は死者が死後の世界で不「神仙思想は、日本にも、弥生学研究者、辰巳和弘先生だ。つまを抽出する技法が知られていた。したものです」と言うのは、古代中国では古くから、辰砂から水銀「古墳は死後の永遠の王宮を表ると信じられていたのだ。なお、のような背景があるのだろうか。を飲めば、不老不死の仙人になれたかに思えるのだが、これにはどとしている。つまり、丹砂や水銀たかも水銀の部屋をつくろうとしの薬のうち、最上のものは丹砂」二〇〇キログラムともされる。あ『抱ほう朴ぼく子し』では、「仙人になるためり、その総使用量は一説には約初めに書かれた神仙思想の指南書もくまなく水銀朱が塗布されておもう少し時代が下って、四世紀には、見える部分も見えない部分される。れ、中は真っ赤だったのだ。石材金の器で飲食し、長生を図ったと井も水銀朱を塗った石材で囲まの武帝は丹砂などからつくった黄この古墳の石室は、床も壁も天せたと司馬遷は伝える。また、漢ら、驚きをもって迎えられた。河や海が広がる地下宮殿をつくらの使用量が尋常ではないことかかせ、自らの墓に、水銀でできたの桜井茶臼山古墳は、その水銀朱の蓬莱山へ不死の薬をもとめに行二一年に再発掘された桜井市外と山びか、秦の始皇帝は、徐福らに伝説あり、発掘されているが、平成歴代皇帝はそれに心ひかれたの明だが、宇陀周辺のものと考えると区別したい時に使われる用語。天神山も、その水銀朱の産地は不ガラ」、鉛からつくられる「鉛丹」宇陀産の可能性もある。茶臼山も鉄系の鉱物からつくられる「ベンば、卑弥呼が魏に献上した辰砂は料のうち、赤鉄鉱や褐鉄鉱などの纒向遺跡が卑弥呼の都だとすれつくられる「朱」のこと。赤色顔推測は続く。注水銀朱水銀を含む鉱物からのではないでしょうか」と先生のを握っていたのが大和朝廷だったれない。の量が必要となります。その利権利権争いが隠されているのかもし水銀朱を使ったとすれば、かなり武の物語には、水銀鉱脈をめぐる神山をはじめ、未発掘の古墳にもざ宇陀を通って盆地に出てくる神が採れたのでしょう。茶臼山、天とわかりやすい。熊野からわざわ吉野首部の先祖の地、井光の里イワレヒコが進んでいくと、尻尾のある人間が光る井戸の中からでてきた。「お前はだれか?」と尋ねると「私はくにつかみいひか国神で、名は井氷鹿と申します」と答えた。これが吉野の首部の先祖である?という記述が記紀にある。川上村にこの伝説の地とされる「井光」の集落があり、今はこれをイカリ井光の集落にある井光神社と読む。尻尾は、今でも山仕事に使用する尻皮(しりあて)のことではないかと村の古老は言う。光る井戸とは、辰砂の露天掘りのあとに、自然水銀がたまっていたものとみる説がある。現集落は「奥の宮」とよばれる奥の集落から移住後に築かれたもの。奥の宮には、山中に直径約20メートルのくぼ地があり、周辺には磐座のような岩も点在する。ここが記紀にある神武天皇と地元民との出会いの場であるとふるこうなかされ、地元では、ぬのあな、古皇、中たいら平ともよんでいる。井光川の上流には、御船の滝がある。御船の滝ミニ情報奈良県ウォーキングポータルサイト「歩く・なら」では、初心者から上級者まで役立つ「ウォーキングコース」の情報が満載。記紀万葉を巡るコースも登場。くわしくは→http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/歩くなら検索38