記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 3/20

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38に納められて、周辺に木炭をたたき締めたところに埋葬されたと推定されている。木櫃はすでに木片となっていたが、骨や墓誌と同時に真珠も出土した。稗田阿礼も田原に眠る?!奈良市の中心から東に約一〇キロ、ひと山....

38に納められて、周辺に木炭をたたき締めたところに埋葬されたと推定されている。木櫃はすでに木片となっていたが、骨や墓誌と同時に真珠も出土した。稗田阿礼も田原に眠る?!奈良市の中心から東に約一〇キロ、ひと山越えたところの小盆地に位置する田原には、奈良時代の墳墓が数多く散在する。光仁天皇陵や春日宮天皇(志貴皇子)陵をはじめ、古墳や火葬墓は三〇以上を数える。少しこんもりした山(今は茶畑となっているところも多い)があれば、お墓だと思っても間違いないほどだ。かつてここは万葉人の奥おく津つ城きだったと考えられる。太安萬侶の墓のように木炭の散乱がみられたり、骨蔵器や須恵器が出土した遺構もいくつか確認されている。このような山を地元では「ケチ山」とよぶが、そのひとつ、「和田山」をめぐって、最近、矢田原の古老、坂谷久幸さん(九一歳)から興味深い話がもたらされた。和田町奥田垣内に、奥田家の所有になる山(現・通称「和田山」)があった。その山の上には塚があり、奥田のおじいさんが、ある時、その塚に小さな穴をあけて、中をのぞくと壺があった。それを持ち帰ろうと抱えると、一天にわかにかき曇り、雨、霰あられ、氷が降り注いだ。その中をやっとの思いで家に帰り着くと、近所のおばあさんに、「山の神さんのたたりじゃ、すぐに元のところに返してこい」と大声で怒鳴られた。すぐに塚に取って返し、壺を埋め戻した。その時、(壺か、どこかに)稗田とか読めるものがあった。そのため、当時、近所では「稗田阿礼さんの墓とちがうか」という噂が流れた。これは、今から約一〇〇年ほど前のことだ。この話は、太平洋戦争後の食糧難の時代に、坂谷さんが「和田山」の開墾作業を手伝った時に奥田の息子さんから直接聞いたという。埋め戻された壺については、その後確認はされていない。「和田山」は現在は一面の茶畑となっており、太安萬侶の墓がある山と谷ひとつ隔てて、向かい合っている。「おーい」と呼べば、返事が返ってくるほどの距離だ。これがほんとうに稗田阿礼の墓とするならば、これほどぴったりの場所もない。もしそうだとすれば、ふたりは死後もずっと語り合っていたかもしれない。をした。骨上げが終わって底を見ると、腐った板が見つかった。そして、その板を取り出して裏返してみたら…、なんとそこには鮮明に読める漢字が並んだ銅板が貼られていたのだ。これが、約一二五〇年にも及ぶ土中の眠りから、太安萬侶の墓誌が発見された瞬間だ。その後の調査により、安萬侶は死後荼だ毘びに付され、その骨は木もく櫃ひつ太安萬侶墓から指呼の間に望む和田山(正面中央)頂上付近の山際に小さな土饅頭があり、これが壺が埋まっている塚かと思われる。ミニ情報奈良県ウォーキングポータルサイト「歩く・なら」では、初心者から上級者まで役立つ「ウォーキングコース」の情報が満載。3月中旬からは記紀万葉を巡るコースも登場。くわしくは→http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/検索歩くなら