記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 2/20

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太安萬侶墓誌墓誌は長さ29.1cm、幅6.1cm、平均厚約1cm。「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥」「年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」。住んでいた場所、位階、名前、亡くなった年月日、埋葬の日....

太安萬侶墓誌墓誌は長さ29.1cm、幅6.1cm、平均厚約1cm。「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥」「年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」。住んでいた場所、位階、名前、亡くなった年月日、埋葬の日が分かる。現在、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館にて常設展示されている。写真/奈良県立橿原考古学研究所編「太安萬侶墓」より転載れを献上するように命じた。こうえていたことを書き起こして、こ暦近かったであろう稗田阿礼が覚臣下である太安萬侶に、すでに還か、平城京に遷都した元明女帝は、た。それを残念に思ったのだろうこの件での進展はみられなかっしかし、天武天皇の没後以降、時二八歳であったと伝わる。いほどの記憶力に優れた人で、当阿礼は一度見聞したことは忘れなた。つまり覚えさせたのである。皇の系譜や伝承を詠み習わしめ聡明な舎人、稗田阿礼に、歴代天また一方で、天武天皇は、若き正史『日本書紀』が完成した。ロジェクトのもと、わが国最初の舎とね人り親王を編者総裁とする編纂プ年(奈良時代・元正天皇)に、が、それから約四〇年後の七二〇がっていくのかどうかは不明だ二三日、奈良市北東部、里山の田昭和五四年(一九七九)年一月太安萬侶の墓が発見されるた和漢混交文となっている。を表した和文と漢文が入り混じっ果、『古事記』は、漢字で音だけ安萬侶はおおいに頭を悩まし、結法は確立されていなかったので、ればならなかった。和文の表記方侶は、阿礼の語りを文章化しなけが、『古事記』を編纂した太安萬本書紀』は漢文で書かれている。たので、法律や国の正史である『日していた。漢文が正式表記とされら入ってきた漢文で日本語を表記ちなみに、当時の人々は中国か存する最古の書物『古事記』だ。駆けて完成したのが、わが国に現して七一二年に『日本書紀』に先なぁ」と、クッキーの箱に骨上げした。「お骨の供養をせなあかんれは人の墓にちがいないと確信この時点で、竹西さんは、こらしきものが出てきた。その灰をかきのけると、今度は骨んじゅうのように積もっている。と、中央部に灰がこんもりとおまりと空洞が現れた。中を覗き込む作業が進むにつれて、突然ぽっかに思っていた。「炭焼きの跡か?」。片がたくさん出てくるので不思議英夫さん(現九三歳)は、炭の破自分の茶山を掘り返していた竹西数日前から、茶の改植のために、れたからである。太安萬侶の墓発見のニュースが流騒然としていた。その日、当地で舞い、大勢の報道陣が押し寄せ、とは一変、上空にヘリコプターが園風景が広がる田原の町は、普段37※壬申の乱:天智天皇(=大化改新の立役者、中大兄皇子)の没後、皇位継承を直接の原因として、天智の弟(大海人皇子、後の天武天皇)が天智の皇子である大友皇子(弘文天皇)をいただく近江王朝に対して起こした、古代最大の反乱。