記紀の迷い道1-5

記紀の迷い道1-5 page 11/20

電子ブックを開く

このページは 記紀の迷い道1-5 の電子ブックに掲載されている11ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
まだはっきりしないのだが。箸墓を含めた纏向遺跡との関係は政権を担った勢力と、それ以前のえられるのだ。その初期のヤマトヤマト政権の本貫の地だったと考内、飛鳥へと勢力を伸ばしていくだろう。三輪山の麓が、や....

まだはっきりしないのだが。箸墓を含めた纏向遺跡との関係は政権を担った勢力と、それ以前のえられるのだ。その初期のヤマトヤマト政権の本貫の地だったと考内、飛鳥へと勢力を伸ばしていくだろう。三輪山の麓が、やがて河もった勢力が存在したことは確実規模な古墳をつくりえる、強権をるにしても、三輪山の周辺に、大の間の距離は埋めがたいものがあこれらのことから、伝説と史実堂々たる前方後円墳だ。る山辺の道付近にあり、いずれも天皇ともに、三輪山の山麓をめぐとされる古墳は、崇神天皇、景行輪山の北麓にある。さらに、御陵伝承地、纏まき向むくの日ひ代しろの宮みやも同じく三山の北麓、そして景行天皇の宮の宮の伝承地、纏まき向むくの珠たま城きの宮みやは三輪籬がきの宮みやと伝わる。続く垂仁天皇のとし、宮は三輪山西南麓の磯し城きの瑞みずこの天皇は三輪山周辺を本拠地力だ。実在した初代天皇と考える説が有皇を三世紀末から四世紀初め頃に代史研究者の間では、この崇神天種々の資料をつき合わせると、古以上は記紀で語られる話だが、ところ、国は平穏になったという。丁重にオオモノヌシを祀り直した探しだして神主に据え、三輪山に後、今日は、狭井神社のご神水で拝殿と巳さん杉にお参りしたのことながら身が引き締まる。ヤッとした冷気に包まれ、いつも二の鳥居から参道に入ると、ヒ久しぶりに大神神社を訪ねた。今なお聖山の趣をとどめるいえるだろう。日本の国づくりの原点であったとなかったことからも、三輪の地は、瀬川流域の狭い範囲をさすに過ぎはといえば、三輪山の西南域の初「ヤマト」という地名が、もと三輪山の祭祀遺跡葉が背丈を伸ばして、窪みとなっが息づいているところなのだ。水音がする。そのあたりに草のほっとした。今なお、熱心な信仰を見てしまう。人の姿が見えた。人の姿をみて、の根っこだ。ここではいないもの跡の磐座の前で、一心に祈る女のとぎくっとする。よく見ると、木てきた。山ノ神遺跡の結界だ。遺長いものが目の端に入る。蛇か!朴な二本の柱と白い紙四手が見えてくる。ふと、なにやら土色の細た。心強くしてさらに進むと、素山肌をぬらしている。ひんやりしと心細くなった頃、御滝場が見えないような、湧き水のような水がもう引き返したほうがいいかも…姿は見当たらない。小川ともいえ何かが潜んでいる気配がする。が、ここまで来ると、ほかに人のは風が見える。狭井神社までは人がいたのだそこが風の道だったのだ。ここでて、山ノ神遺跡まで足を延ばす。下のほうに回ってみて分かった。の池の裏にある狭い道をあがっだけ揺れている。虫?いいや、のどを潤してから、市い杵つき島しま姫ひめ神社た水面にわたっている。葉が二枚三輪山山中には、神が降りたまう磐座として、現在でも信仰の対象となっている巨石群がいくつかある。これらは三輪山そのものが御神体であるため、調査されたことはない。狭川沿いにある山ノ神遺跡の磐座は、大正時代にミカン畑の開墾中にたまたま発見されたため、調査が可能となった。ここからは、素文鏡、勾玉、臼玉、土製模造品などが出土し、4世紀後半から5世紀前半にかけて鏡や玉を用いた祀りが行われた。5世紀後半?6世紀にかけて、模造品が多く使われるようになり、祭祀が儀礼化してきたことがうかがえる。三輪特有のものとされる子持勾玉も出土している。この遺跡の近くの奥垣内遺跡からは、オオタタネコの出身地、河すえむら内陶邑産の須恵器も出土する。これらは5世紀以降のもので、河内王朝との関連が興味深い。山ノ神遺跡子持勾玉(弥生時代の芝遺跡出土、天地81mm、左右27mm、厚さ22mm)写真提供:桜井市教育委員会山ノ神遺跡で出土した小型の土製模造品写真提供:大神神社ミニ情報奈良県ウォーキングポータルサイト「歩く・なら」では、初心者から上級者まで役立つ「ウォーキングコース」の情報が満載。記紀万葉を巡るコースも登場。くわしくは→http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/歩くなら検索38